东瀛之子/文 今年は国交正常化50周年、そんな記念すべき年を迎えたのに、コロナ禍でリアルな交流が停滞していることは中国と長く関わって来た筆者としてはとてももどかしい。政界では台湾有事を叫ぶ声が喧しく、政府の有力関係者は必要以上に緊張感を煽ることも周年のお祭り騒ぎしている場合ではないと世論を戒める。
中国の改革開放前夜から日中関係の重要性を深く認識し汗を流した多くの先人が数々のレジェンドが生んだ。それは戦前からの延長線上で日中の歴史を観て来た日中双方の先人たちの教訓、支えがあったからだ。
しかし、戦後は東西冷戦のはざまで日本にとって中国は遠い存在になってしまう時期があった。4000年の歴史を有する中国の知恵や思想は今でも深く日本人に刻まれているが、絆についてはその連続性が一時は途絶えてしまう。「閉ざされた言語空間」(江藤淳)にもあるように、GHQの管制下で戦前の対中認識は軍国主義と共に葬り去られ、中国は五星紅旗の社会主義国家のイメージが濃くなり、改革開放から40年を経てもなお、米国の同盟国の立場から対抗、脅威の念が強いまま現在に至っている。
筆者は日露戦争から第二次世界大戦の敗戦までを「空白の40年」と呼んでいる。中国ではこの時代を学校教育の中では愛国主義と相まってとても深く学ぶようだが、日本の教育はどうも表層的で、軍国主義に覆われたイメージが強く、受験の対象教材としてしか頭に残っていない。実際あの40年間は一般市民も含め経済や文化関係者の往来は頻繁で、多くの中国人留学生が日本に学び、中国の近代化に大きく影響した時代だ。
今は多くの先人たちは鬼籍に入り、戦中から戦後生まれの現在の各界の識者、経営者の世代はその歴史を知らないまま、1972年突如として現れた中国と出逢う。
中国はどうか、国を挙げての改革開放で80年代以降に日本から学ぼうとする知日派も登場、レジェンドを共有するが、今世紀に入ると経済成長は加速し、それと反比例するように日本のイメージは相対的に薄まって行く。我々が親しく往来していた政府関係者も日本処と言うセクションのカウンターパートも第三国との対応も忙しくなり人的関係は相対的に希薄化していく。経済面では垂直的な分業の関係が減り、日本の優位性が少なくなって来た。爆買いや観光の対象でこそあれ、歴史問題や領土問題、米国との対立の構図の中で官民ともに対話のパイプが細くなってしまった。
残念ながら「政冷経熱」とは今や時代錯誤で、外交ムードの後退が経済にも大きく影響するようになった。確かにビジネス機会はまだまだ広いし、その空間は日中のそれぞれの国内に止まらず第三国の空間での協業の期待もあるが、日本は変化についていけないでいる。
この状況を打開すべく日本政府は「したたかな外交」を追求するも、経済界は米国の動きを観ながら総じて閉塞感が漂う。
そんな中、中国では新たに日本語を学ぼうとする中国の若者が増えていると言う。日本でも失われた20年で社会が内向きになり、若い世代も籠りがちだが、過去を引きずらず、冷静に中国を見つめている日本の若者たちがいる。また、改革開放の日中協力のレジェンドを実感して来たシニアの世代にも自慢話ではなく、人的関係の継承も含めて教訓や経験を地道に伝えようとしている人もいる。
NHKで昨年「中国“改革開放”を支えた日本人」と題するドキュメンタリーが放映された。
若者世代にはもはや「歴史」の一幕であるが、このようなレジェンドは広く多くの方々にも知って欲しいと思う。
疾風勁草、これからも風に流されず主体性を持って相手と向かい合っている人たちの健闘を見守って欲しい。