陳言/文 1980年代に初めて深圳に行った。その時は日本の大手新聞社7社の経済部長と一緒に深圳で取材を行い、大阪弁を話す日本の家電メーカーの職員から話を聞いたが、その職員は大きな水田を指差して、この水田は半年後にカラーテレビ工場に変わると語った。その頃の中国は、だれかの家にテレビがあれば集合住宅の住人全員、ひいては村人全員がテレビを見るためにその家に集まるという状態だった。急いで深圳に工場を建設する気持ちは分かるが、本当にできるのだろうかと不思議だった。しかし半年後、深圳の華強電視により製造されたテレビが長きにわたって中国のトップセールスを記録し、中国のテレビ市場を根底から覆した。
その時は深圳に行って、中英街を歩いて通り過ぎて、香港に入った。深圳の非常に貧しいとは異なり、中英街は何でもそろっていた。ジーンズが1本10元だった。当時私は大学を卒業してすでに数年が経過していたが、そのジーンズの価格は私の1週間分の給料に相当し、香港でないと購入できず、中国国内でそれを生産できるメーカーもなかった。香港は私にとっておしゃれな都市という印象がある。
1994年に日本で仕事をしたときに、中国に戻って調査してから、香港を経由して東京に戻った。香港の街を歩いて、目立たない小さなレストランで食事したが、とても美味な広東料理を楽しめた。香港の美食は本当に北京や東京のそれとは比べ物にならないということが分かった。
新型コロナウイルスが拡大する前に、ほぼ毎月深圳に行ってテレビ番組に出演し、また香港と深圳の通関の状況を見た。人の往来は北京空港よりも賑やかだった。テレビ局の職員のうち、最初の頃、一部の技術要員は香港出身者だったが、後には番組を手掛ける職員の中にも香港出身の職員を見かけるようになった。のちに分かった点として、約5万人の香港人が深圳で働いており、各種の業界で活躍している。深圳の経済力が上がり、給料水準などが高くなっているため、すでに深圳は多くの香港人を受け入れて働きの場を提供している。
深圳にはファーウェイや大疆創新(DJI)、比亜迪(BYD)など多くの著名なメーカーがあり、同市での開発や産業は中国の最先端を走っている。香港ではこのような産業型企業を生み出すのは困難であり、深圳の人とこの問題について話すと、もし香港大学や香港理工大学、香港科技大学などの高等教育機関がなければ、深圳の力や大陸の各地から深圳にやってくるエリートに頼るしかなく、そうであれば深圳のハイテクを支えるのは非常に困難だという。見えないところで、香港は依然として高い実力を有する。
深圳と香港は互いに補い合っている。ある視点から見ると、深圳と香港の協力は、1980年から2000年までが「ファクトリーストア」モデルの1.0バージョン、2000年から2017年までが「香港のサービス、深圳の科学技術」の2.0バージョン、2017年以降は「香港における開発、深圳での実用化」が3.0バージョンの特徴となっている。深圳と香港の関係はアップグレードし続けている。
香港が返還されて25年が経過したが、この25年の間に、人口は100万人増加したが、GDPや株式市場価格などにおける増加は人口のそれよりもさらに大きい。広東・香港・マカオグレーターベイエリアの座標系において、深圳と香港の両地区における2021年GDPの総和は5兆4000億元を超えており、グレーターベイエリアの総体経済に占める割合は43%以上だ。深圳と香港の両地区から放射線状に広がるグレーターベイエリアは、さらに華南地区全体、そして中国全体に向かって拡張し続けており、今後の深圳と香港には大きな発展の余地がある。
(中国日本商会HP 2022年7月8日より)