陳言/文 日本にいたとき、宮城谷昌光の小説を読むのが好きだった。『重耳』を読んだ後、一番読みたかったのは『介子推』(介子推 ?~前636)で、『介子推』を読み終えたら、機会をみつけて山西省介休市に行き、介子推の墓を見てみたいと思った。
2022年8月28日(日曜日)、介休に新型コロナが発生していないことを確認した後、車を運転して北京から出発した。まるまる600キロ、5時間余りで到着した。高速を降りると防護服を着た警察官が、まず自動車運転免許証をチェックし、何も言わずに免許証を取り上げた。続いてPCR検査をして、山西省の健康コードを申請し、行程カードを提出すると、上海に行った記録を見つけ、警察官はマスクをしっかり付け直し、後ろに下がって、「上海に行ったことのある人がいるぞ」と叫んだ。にわかに高速の出口にいた山西人がみな数歩後ずさり、筆者一人だけに上海での行動を詳細に報告させ、一つひとつ確認した後にようやく解放された。運転免許証を取り戻した時には、高速の入り口ですでに40分が経過していた。
こうして私はとうとう介休に入った。ここに10日前にやって来たよそ者の一人がPCR検査で陽性となった。その結果、全市でPCR検査が集中的に行われ、27日に陽性患者が出ていないのが確認されると、28日に初めて都市封鎖が解除された。
介子推の墓は綿山にあり、当然、綿山は封鎖が解除された後もそこに入って参拝することが許されていなかった。でもせっかく来たのだからと、やはり車で綿山に向かった。
綿山の入り口には大きな介子推の彫像があった。2600年前の人の服装は、現代人が想像するしかないが、この彫像の服装は600年前の明代のものとほほ同じように思われた。もちろん、600年前であってもとても古い。宮城谷の小説をみると、介子推は極めて忠実な賢い人であったことが分かる。孔子は介子推よりも80年余り遅く、介子推をよく知っていただろうが、孔子の介子推に対する評価の言葉を私は探し当てることはできなかった。ただ、孔子を祀る文廟には、往々にして介子推の彫像あるいは関連記述がある。忠孝といえば何といっても介子推だろう。
しかし綿山では、儒教勢力は道教にはるかに及ばない。前漢(前202~後8)以降、介子推は早くも道家の神とされていたようだが、綿山では当然介子推を道教の神として、現地の道観の中で祀っている。前漢以降、仏教が中国に入り、中国の庶民にお釈迦様について説くとき、中国の神も釈迦の周辺におく必要があったため、山西の寺院の中には介子推を羅漢の一人としているところもある。儒教・道教・仏教が同時に介子推を文化上の著名人としているのである。
筆者の印象では、介子推は儒教的人物であるが、山西では彼は道教の諸神のなかで最も重要な人物の一人であり、仏教が伝来した後は、中国の羅漢にこの人を入れる必要があったのだろう。どの時代にもその時代の介子推がいる。
宮城谷の小説を読むと、介子推が道教の神、仏教の羅漢になるような伏線はまったくないが、山西の介子推は、実際にはこのような人物であり、今日の中国では介子推と道教・仏教との関係を知る人はとても少なくなっている。
(中国日本商会HP 2022年9月7日より)
当研究院のメールマガジンをご購読いただくと、当方の週報を無料配信いたします。ほかにも次のような特典がございます。
·当サイト掲載の記事の配信
·研究院の各種研究レポート(コンパクト版)の配信
·研究院主催の各種イベントのお知らせ及び招待状
週報の配信を希望されない場合、その旨をお知らせください。